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Posted by おてもやん at

この路地の先に・・その22

2010年05月27日

船内に乗り込むと、早速モロッコミュージックが私たちを出迎えてくれた。
はじめて聞くその不思議な旋律は、これから先に、今まで出会ったことのない異文化が
私たちを待ち受けているであろうことを想像させるのに十分だった。

うれしい事に、もう前の船で行ってしまったと思っていたCALIDに再会。

「お~、お前らモロッコに行くのか!」
   (あなたが、絶対行けと言ったでしょ)

「なら、おれの家があるマラケシュに来いよ。」
   「うん、行く!」

マラケシュというエキゾチックな響き。でも、モロッコのどの辺にあるんだろう。


しばらして、うっすらとアフリカ大陸が見えてきた時は、何か胸にじ~んと迫るものがあった。


スペインを出て2時間後、ジブラルタル海峡を渡りアフリカの玄関口タンジェに到着した。
アフリカのほんの端っことはいえ、大陸に自分の足で立つことができ、感無量。



モロッコ、チュニジア、アルジェリアはマグレブ3国と呼ばれている。
マグレブというのは、「日の沈む国」という意味だ。
日本は古来より、「日の出ずる国」と呼ばれていることからすれば、
東の端から、西の端へやってきた事になる。

ベタではあるが「思えば遠くへ来たもんだ~。」フレーズが頭をよぎった。



この港街タンジェで、ヨーロッパからやってきたバックパッカーたちは、
否応なしにアフリカの洗礼を受けることになる。
それは、尋常ではないポーターや自称ガイドの執拗な客引きだ。
これに恐れをなし、そのままヨーロッパに逃げ帰る人もいるらしい。

私たちは、幸いにも、モロッコ人の友人を得ていたことから、何なくこれをクリアし駅へと向かった。
駅で、マラケシュ行き2等車のキップを購入し、いよいよモロッコでの私達の旅が始まった。


その時は、12時間にもなる長~い列車の旅になるとは知らず・・。

というわけで、前回の冒頭となったわけです。

  

今日よりモロッコ篇 この路地の先に・・その21

2010年05月21日






その日、私たちは、西アフリカはモロッコの空の下、夜行列車に揺られ、マラケシュの町へ向かっていた。
予定では、今頃、同じアフリカ大陸でも、スペイン領のセウタのホテルでゆっくり寝ているはずだったのに、なんでこんなことに・・。



せっかく、日本からはるばるやってきたのだから、
アフリカ大陸にも、自分の足跡を残したいと思い、簡単に行けるスペイン領のセウタへ渡るため、
船乗り場へ向かってその朝早く、汽車に乗り込んだ。

その時、たまたま隣の席に座っていたのが、モロッコ人の男の子、CALID。
聞けば、今フランスの大学に留学中とか。イスラム教のお祭り、ラマダンで里帰りの途中なのだそうだ。
日本のお盆や、西洋のクリスマスと同様、イスラムの人々はその時期はお里に帰り、
家族で過ごすのが習慣なのだ。

彼曰く
「スペインなんてつまんないだろう。」
「なんてったって、モロッコは最高さ!!」
「なんで、モロッコに行かないんだよ。絶対行った方がいいって!!」
みたいな事を力説するもんだから、私たちも、だんだんその気になってきた。

そりゃあ、行ってみたいよ。でも、ガイドブックも持ってないしね~。


アルヘシラスの港で、彼と別れた後、日本人の岩崎くんと出会った。
彼は、アメリカ中を旅してきて、ニューヨークからヨーロッパに渡り、今からモロッコに向かうという。
それにしても、やっぱり男の子はうらやましい。
だって、世界中を旅しながら、荷物が小さなセカンドバッグひとつ!!
彼が、持っていたモロッコのガイドブックを見せてもらったら、なんとかなりそうじゃない?!という気になってきた。
(なんとかなるかァ~?)
でもって、気が弱いくせに、思いきりの良さが時々顔を出す変な性格で
「え~い!行ちゃえ~!!」とセウタではなく、モロッコ行きの船に乗り込んだのであった。

波乱万丈のスペインの旅ではあったが、それでも今までは計画にのっとり、行動していたのだ(これでも)
しかし、このあたりから、私達の旅は徐々にラビリエンスに迷い込むこととなっていった。

(フェリーの上で・・後ろにはうっすりとアフリカ大陸が見えてきた。)  
タグ :モロッコ

この路地の先に・・その20

2010年05月06日

旅のガイドブック「地球の歩き方」にこう書いてあったんだよね。

「もしあなたが、ここを訪れるとしたら、ぜひ日曜日を入れてほしい。
人口わずか3万人しかいないロンダで観る闘牛こそ、本当のスペインが、かいま見られるというものだ。」って。

で、わざわざ日曜日にやって来ました、ロンダ。
闘牛見るならここで!!って決めてたんです。

ところが、今日やってないんだってさ、闘牛。
なんか、街で今日はお祭りがあるらしくて、それで、闘牛はお休みらしい。

がっかり。せっかくスペインらしい白い壁のあるアンダルシアの闘牛場まで
やってきたのにね。




せっかくなんで、おのぼりさん観光客的記念撮影を一枚、パチリ。





あと、こうも書いてあったんだよね。
「この街は、期待以上の感動を与えてくれる。」って。

この街は、断崖絶壁の上あって、ヌエボ橋の下からの眺めが凄い。



この橋で、旧市街地と新市街地が分かれているのだが、旧市街地はけっこう見どころが多かった。
Casa del Marques de Salvaierraのインカの彫刻が印象的だったな。

帰る途中、犬にほえられて、遠まわりする羽目に。
なんかついてないぞ、今日はと思っていたら、
御土産屋さんのおじさんに声をかけられ、地図をもらっちゃった。

絵葉書もタダでくれたので、お礼に日本の絵葉書をあげたら、今度はロンダの本をくれた。(スペイン語読めないんだけど・・)

この町に、三木さんとカズコさんていう、日本人のお友達がいるんだって。
やさしいおじさんとの出会いで、いい気持ちで一日が終わりよかった・・。

ある意味、期待以上の感動があったかも。


そして次日、
なぜか私たちは、西アフリカ、モロッコの空の下にいたのだった。

まだ、本物のフラメンコも闘牛も見てないんだよな~。



ということで、スペイン編、いきなり終了しました。ご愛読ありがとうございました。
ムーチャス グラシアス!!
次回から、モロッコ篇です。お楽しみに~!!
アディオ~ス!!アミーゴ!!


  

番外編 続き

2010年04月02日

よく、お母さんの話をしてくれていたので、
「お母さんに会うのが楽しみ。」と言うと。
   「マムは、英語しゃべれないのよ。」と。

彼女は、イギリス生まれのイギリス育ちだが、ご両親はインドのご出身で、
お父様は、すでに亡くなり、今はお母さんと2人暮らしだ。

家庭での会話は、パンジャビ語(インド北部の言葉だったと思うが)なのだそうだ。
まあ、こちらも片言の英語なのだからちょうどいいではないか。

サリーを身にまとったお母さんは、やさしい笑顔で迎えてくださった。




(右から、お母さんと近所のお友達)

小さいながらも、よく手入れの行き届いた庭を眺めながら飲んだ、お母さんの入れて下さった紅茶はとてもおいしく感じた。
たとえそれが、ティーパックの紅茶でも(笑)






(ラベンダーがきれい)

別れの日、お母さんは微笑みながら、私たちにお金を差し出した。
もちろん固辞したのだが、どうしてもということだったので、結局ありがたく頂いてしまった。
社会人になって以来、おこずかいをもらう事なんてたぶん初めてだったので、
びっくりで、かつ、とってもうれしかった。




おととしのクリスマス、毎年届く彼女からのクリスマスカードが来ず、
気にはなっていたものの、忙しいのだろうと思っていた。
年が明けて届いたメールには、
「去年、母が亡くなったのでカード出せなかった。ごめんなさい。」とあった。
遺灰を持って、インドのお母さんの故郷へ行くとも書かれていた。
私にとって、たった数日を一緒に過ごしただけの人であったが、あのにじみ出るような優しさを忘れることはないだろう。

一人になった彼女の事が心配だったが、今、相変わらずあちこち旅行しているぐらいだから、
元気なんだろう。

ハガキの最後は、「会いたいな~。もうすぐ、日本に行くからね~!」と結ばれていた。
え~、ホントに!今から、彼女との再会がとても楽しみだ。
  
タグ :イギリス

番外編 この路地の先に・・・。

2010年04月01日




昨日、我が家に舞い降りた一枚の英文のはがき。
「ん~、この悪筆は、Hちゃんだな。」

彼女からの手紙、いつも宛名は私の苗字さえない。
UMEKO SAN (実際は本名は書いてありますけど)てな具合で、まさかSANが苗字と思っているって事はないと思うのだが。なんか、郵便屋さんに申しわけない気がする。

で、消印は?



マラケシュ!!
今度は、モロッコかァ~。




この間は、アルゼンチンからで、「タンゴを習っています。」なんて書いてあったし、その前はカナダからで、確かその前は、「インドに野生のトラを見にきています。」だった。

私より、ず~っと小柄な彼女のどこにそんなパワーがあるのか、いつも感心してしまう。

しかし、いつものことながら彼女の手紙は、解読するのに3回は読み直さなければならない。というか、3回で、解読できる私は偉いとさえ思う。

だって、これが 


The で
これが、


very という感じなんだもん。
内容も、天気の話しとかぐらいだし、前後の文脈と慣れで、いつもなんとか理解している。



イギリスから、この山里の町の中学校の英語教師としてやってきた彼女を、前任の先生が紹介してくれたのが、最初の出会いだった。もう7、8年前にもなるだろうか。

年老いた母が心配だからと、たった一年で帰国してしまったが、それまで楽しくお付き合いさせて頂いた。
気さくな彼女は、よく自宅に招待してくれたものだ。インターネットで輸入したという、ナンやベジタリアンの彼女が作ってくれたインド料理はとてもおいしかった。
ただ、ヨーグルトに刻んだキュウリを混ぜて、ご飯の上に乗せた物だけはどうもいただけなかったが。(どう考えても、それぞれ別々食べた方が、おいしいだろっ!)


帰国する時
「イギリスに遊びにきてね。」
「うん、行くよ。」という会話があったわけだが、社交辞令みたいなもので、
普通はこれでおしまい。それっきり、音信不通になるパターンさえある。

しかし、彼女は、それからも何度か国際電話をかけて来てくれ、その度に
「いつ来るの?」
「いつ来れるの?」と聞くものだから、
私も思わず「じゃあ、来年の春に行くよ。」と答えてしまった。


そんなこんなで、私は花々が美しく咲き誇る季節、ロンドンのヒースロー空港で彼女と感激の再会を果たしたのだった。

つづく・・・。
  
タグ :イギリス

この路地の先に・・その19

2010年03月11日

グラナダでスキーのまねごとを楽しんだ次の日は、メスキータを見るため
コルドバに向かった。


グラナダからバスで4時間半、結構都会だ。
なかなか良いホスタルが見つからなくて、やっとそれなりの宿を探し出した頃はもう夕暮れだった。

夕食後、燈火のキリスト広場へ。
8本のカンテラの火に囲まれた十字架の上のキリスト像を見つめていると心が落ち着いた。


(昼間の燈火のキリスト広場)

ロマンちっくなこの場所で、一組の恋人たちがデートを楽しんでいた。
向こうは絶対、「早く帰らんかい、この観光客」と思ってただろうな・・・。



朝、車の音で目覚めて窓を開けると、今日も抜けるような青空。
今日も暑くなりそうな気配を感じながら、メスキータへ。

メスキータは、もともとイスラム教のモスクだったが、その後、13世紀にキリスト教徒によって街が奪回されると、今度はキリスト教のカテドラルとして使われるようになった。
内部は、独特の赤と白のしましま模様のアーチがあり、ここで25000人のアラブ人がメッカの方向に向かいひれ伏していたのだ。









さて、私たちの旅も、もう半分が過ぎてしまった。
この辺で、一度家にも連絡を入れとかないとやばいかなと、公衆電話から国際電話をしてみた。

「はい、○○です。」と兄の声。

「あ~、私。」

一瞬の沈黙の後
「おまえな~、・・」
と、ここで電話は切れてしまった。

めいいっぱいコインを入れたつもりだったがこれだけしか話せなかった。
しかも、兄の声は確かに怒っていた。
私に対する父の怒りや愚痴を兄が一手に引き受けていることは想像に難くない。

まあ、私が生きているということはわかっただろうし、
よしとするかと自分に言い聞かせては見るのだが、帰国してからの事を考えると、
どういう事態になるのか、考えるのも怖い。

なるべく気にしないようにしてはいたが、これからまだまだ続く旅の中で、
ふと、あの「おまえな~。」の声が頭をよぎり、私を脅えさせるのだった。







  

この路地の先に・・その18

2010年01月28日

翌日は、朝9時グラナダ発のバスに乗り、ソリニエベスキー場へと向かった。

あのアルハンブラ宮殿の後ろにそびえていた、シエラ・ネバダ山脈の頂上付近にあるこのスキー場。
遠くから見ていた時は、雪で真っ白だったが、いざ着いてみると、けっこう岩が顔を出している。

けれども、素晴らしい青空と輝く雪。ソリエニエベ(太陽と雪)という名にふさわしい所だ。


せっかく来たんで、スキーに挑戦。
レンタルスキー屋のおじさんが、不安気だったが、笑顔で押し切る。

今まで私が行った事のある日本のスキー場とは違って、広大なゲレンデには見渡すところ木は一本のないし、なんたって人がいない。
リフトの待ち時間も、当然ゼロ。








ほとんど人影のないゲレンデと真っ青な空。気分は最高!
といっても、スキーの腕前は、ボーゲンに毛が生えた程度なんで、
猫に小判、豚に真珠で、
本物のスキーヤーの方々には申し訳ない気がした。


~馬見原商店街のすぐ近く、五ヶ瀬ハイランドスキー場にも、
ぜひ、遊びに来て下さいね!~
  

この路地の先に・・その17

2010年01月20日






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アルハンブラ宮殿から、帰って来てみると
ラッキーな事に、その日はグラナダの春祭り。
子供たちもみんな、フラメンコの衣装で着飾っている。

ちっちゃい子供たちはホントにかわいい。
あちらこちらで、みんな思い思いにフラメンコを踊っている。

スペインの人たちって、みんなフラメンコが踊れるのだろうか?
学校でダンスの授業とかあるのかな?

日本で言えば、夏祭りに浴衣を着て、盆踊りを踊るようなものか。


とにかく、毎年みんなこのお祭りをとっても楽しみしてるんだろうな。



今では日本でもよく見かける棒状のなが~いドーナツ、チューロの屋台があった。
ドラム缶みたいな中に油が入っていて、搾り器から生地がにゅ~と出てチューロができて行くのを、適当な大きさにカットして出来上がり。

面白くて、眺めていたら、中学生ぐらいの男の子が、自分のチューロを少し分けてくれた。
お祭りで男性がみんなかぶっている、黒い帽子を私の頭に乗せてくれたり、とってもやさしい男の子だった。

高校生の女の子ぐらいになると、もう大人っていう感じでとっても色っぽい。
一度、あのフラメンコのドレスきてみたい。


  

この路地の先に・・その16

2009年12月03日





千夜一夜物語や、魔法のランプの世界がそこには広がっていた。


鍾乳石飾りで覆われた天井、アラブ文様のタイルの壁など、すべてが今まで見たことのないようなものばかりだ。


おとぎ話の中ではなく、栄華を極めたアラブの王とそれを取り囲む人々、そしてハーレムの女たちが、この宮殿で実際に暮らしいたのだ。
なんだか、不思議な気がした。

が、世界的な観光名所、とにかく観光客でいっぱいで、写真を撮るのも一苦労。
というわけで、本日は、絵葉書の写真をお楽しみください。





ギター曲「アルハンブラの想い出」なぞを聞きながら・・・・。










  

この路地の先に・・その15

2009年11月13日





昨日、教会前で出会った日本人バックッパッカーの女性Sさんと三人で
夜の12時にバレンシア駅から夜行列車に乗り、グラナダへ向けて出発した。

8人乗りのコンパートメントに6人が乗り込み、なんだかうるさくて私は一睡もすることが出来なかった。
でもそのお陰で、みんなが夢の中にいる間、広大な畑の向こうから昇るうつくしい朝日を
独り占めすることができた。

朝10時50分にグラナダに到着。
この日は、ジプシーのサクロモンテの丘を上り、アルバイシンの迷路をサンニコラス広場を探しながらさまよい歩いたのですっかり疲れてしまったが、
この広場から見たアルハンブラ宮殿は、シエラネバダの山を背景に堂々とした佇まいを見せていた。




今日アンダルシア地方に入り、やっと私たちがイメージしていた、眩しい太陽、白い壁とパティオの家といったスペインらしい風景にたくさん出会う事が出来た一日だった。







次の日いよいよ憧れのアルハンブラ宮殿へ。




アルハンブラ宮殿は、今まで見てきたカソリック教会建築とはまったく異なる建造物だった。これがアラブか。

次回へつづく・・・。
  

この路地の先に・・その14

2009年11月10日









美しい海を眺めながら、のんびりマヨルカ島で3日間ほど過ごした。
沖縄に行った事がなかった私にとっては、今までの人生で見た一番美しい海だった。

この旅も、約半分が過ぎようとしている。とにかく、ここまでいろんな人に助けられながら、無事に旅をしてこられたことに感謝。


今日も、スペイン広場で満員のバスから降りられなくて困っていたら、周りの中学生ぐらいの子供たち、がみんなで、運転手さんにブーイングを出して降ろしてくれた。


しかし、その後、乗り換えたバスが渋滞にかかり、飛行機に乗り遅れそうになった。
カンウターでは、もうだめと言われたが、なんとか泣きついて乗せてもらった。



ほっと一安心、座席に着くと、お隣の若い男性から話しかけられた。
その人は、ブロンドの髪に、吸い込まれそうな青い目のフィンランド人で、モデルか映画俳優のようにすごく素敵な人で、私のテンションも、急上昇↑。

しか~し!
話を聞いていると、今日は結婚記念日で、スチュワーデスである奥様のフライト先で一緒にお祝いするために、バレンシアに向かっているとか。

「オウ、レアリー?コングラチュレイション!」とか、なんとか言ったものの
私のテンションは急転直下↓、奈落の底まで落ちたのであった。

そんなこんなで、あっという間にバレンシアに到着。
次の日は、メーデーだったので、どこも休みであまり見る物もなく、たまたまやっていた野外コンサートで意味の全く分からないスペイン語の歌を聞いてぼ~っと過ごしたが、それなりに楽しかった。


  

この路地の先に・・その13

2009年10月09日








アンドラ王国から思いがけず、早い時間にバルセロナ空港に到着したので、予約を変更してもらい、すぐにマヨルカ島に向かった。
なんだか、島ということで暖かいのかと思ったら、ここも結構寒かった。
いつになったら、私が想像していた太陽のまぶしい情熱のスペインと出会えるのだろうか。

今日の宿は、安くて、オーナーのおじさんもとっても親切でよかった。
宿のすぐそばのすばらしいカテドラルを見学した後、しばらくぼ~っと地中海を眺めていた。風がなかったら、もう少しは暖かくて気持ちが良かったのに。

通りへ出ると、何やら賑やか。今日は、フォークダンスのフェスティバルだそうだ。
何もしらないままやってきた私たちであったが、たまにはいいこともあるものだ。







色んな国や地方のフォークダンスのチームが目の前を踊りながら、通り過ぎて行く。
衣裳もとっても、かわいい。






↑ん~これはちょっと、志村けんか?!という感じ。

今日は、とってもいい日だった。明日は、ショパンもしばらく滞在していたという
バルデモサの村へ行ってみることにしよう。




海の近くのカテドラル



ショパンが恋人と住んでいたバルデモサの教会



  

この路地の先に・・その12

2009年09月12日

マヨルカ島に行く前に、もう一ヶ所行ってみたい所があった。
スペインとフランスの間に挟まれた小国、「アンドラ王国」だ。

ガイドブックには、とりわけ見どころもないというような事も書いてあったのだが、
税金も軍隊もない平和な国を見てみたかった。

ガイドブックに書いてあった通りに行ったつもりだったが、汽車を降りて
駅員さんに尋ねたところ、「バスは一日一本で、もう出たよ。」とのこと。
「駅の前の宿に一泊して明日行くか、ひとつ前の駅まで戻れば、まだバスがあるからそれで行くかだね。」と言われた。
(梅子自動翻訳機によるものです)

気がつくと、確かに周りから聞こえてくる会話はいつしかフランス語になっていた。
いつの間にか、フランス側に入っていた私たちは、またパスポートを見せるのが大変なので、隙を見てフェンスがちょっと開いているところから、駅のホームに戻った。

再び汽車に乗り、ひとつ手前の駅まで戻ると、車内清掃のおじさんが私たちをアンドラ行きのバスまで案内してくれ、バスの運転手さんに
「こいつらを、アンドラまで頼むよ。」と声を掛けてくれた。
さっきの駅でお世話になった駅員さんが、お掃除のおじさんに私達の事を頼んでくれていたのだ。親切な人たちに出会い、他力本願のみで旅をしているような私達であった。








アンドラ王国は、きれいでのどかな国だった。雪の冠をかぶったピレネーの山の美しさと、澄んだ空気に、心が洗われるようだった。

と、ここまでは良かったのだが、明日のバスの時間を聞くため、インフォメーションに行くと、「明日は、ストでバスも汽車も動かないよ」とのこと。
もう~いい加減にしてよ!!なんで、こんなにストばっかり?!
とにかく明日中にバルセロナに帰らないと、マヨルカ行きのチケットがパーになってしまう。
明日帰る方法は一つだけ。朝8時に直接バルセロナ空港に行く、ミニバスが出るということで、仕方なく3000ペセタも払ってチケットを買った。
お金も無くなって、せっかく免税の国なのに買い物もできず、おまけに4月末だというのに、雪まで降り出す始末。

さっきまでの、すがすがしい気分はとうに消えうせ、来なきゃよかったと後悔している私達であった。
乙女の心は、ピレネーの山の天気のごとく移りやすいのだ。こんな夜は早く寝るに限ります。
  

この路地の先に・・その11

2009年08月30日

今日は、地中海のバルコニーと呼ばれているタラゴナへやって来た。しかし、毎日、よく雨が降る。せっかくの、素晴らしい眺めが、霞んでいるのは残念だ。
日本で持っていたイメージ「情熱の国スペイン」とは、ちょっと違う顔を私たちには、見せたかったのかもと思うことにする。

お天気はともかくとして、この町も素敵なところだった。
紀元前のローマの遺跡がいたるところにあり、現在でも人が住んでいたりするのだからびっくりだ。

カテドラルのギィジェンの祭壇彫刻は素晴らしかったし、考古学博物館もなかなか楽しかった。

考古学の道パセオ・デ・アルケオロヒコをのんびりと散策すれば、ローマ時代の哲学者になったような気分になるかと思ったが、とってもお腹が減った。

帰りにシッチェスに立ち寄り食事をした。ここのレストランで食べた、ロブスターのスープは絶品だった。私の中の、スペイン3大美味に登録決定確実。
今のところ、あとの2つは、セゴビアの豚の胎児の丸焼きとコンポステーラの生ガキが最有力候補だ。
普段は、公園や移動中のバスの中でパンをかじったりしている私たちだが、たまにはおいしい物も食べないとね。

バルセロナに帰って、旅行代理店でマヨルカ島行きのチケットの予約をした。残念ながら、船はストライキ中とかで(またかよ!)飛行機で行くことになり、出費大となったのであった。





素敵な水飲み場。あちらこちらにあるローマ時代の遺跡が今でも使われている。

  

この路地の先に・・その9

2009年07月08日

お話の続き  スペイン編



朝、なごりおしいサンチアゴを発った私たちは、夕方レオンという町に降り立った。
レオンは日本語でいうライオン。橋のたもとにあるライオンの像の前でとりあえず記念撮影をした。

次の日は、三大カテドラルのあるブルゴスへ。
そして、いよいよ寝台列車に乗り、大都会バルセロナへ旅立った。
と、ここまで私たちにしては順調に旅は進んでいただが、やはりそううまくはいかず、バルセロナ行きの列車は4時間待たされ、しかもなぜか、朝4時にいきなりおこされて、サラゴサで降ろされた!
ありえないけど、スペインではありえる、いきなりのスト突入。

そんな、スペインの国鉄事情にもう慣れてしまっていた私たちは、
「はいはい、またバスね。」という感じで、
他の乗客と一緒にバスに乗り込んだ。
結局汽車より早く着いたし、寝台車分の料金は返還してくれたので、まあ許そう。


バルセロナはさすが、都会。田舎ではほとんど見かけなかった日本人もたくさんいる。



「日本人はマナーが悪い。外国の人を見ると、外人と言ってじろじろ見たり指をさしたりする。」
と聞いたことがないだろうか?
スペインの田舎ではそんなもんじゃなかった。
物珍しそうに見られるのは当然のこと、わざわざ車をバックさせてきてまじまじと眺められたり、
子供たちからはいつも「チーノ、チーノ(中国人)」と指をさされるし、
「KARATE!」とか、「ジャッキーチェーン!」だの、「ブルース・リー」だの色々な事を言われた。

面白いのは、「チーノ!」と言われて「ハポネッサ(日本人)よ」と言うと、ちょっと子供たちの態度が変わるのだ。
「ちょっと!日本人だってよ・・ひそひそ・・」みたいな感じで。

スペインには「ハポン」という苗字の人たちもいて結構日本人には友好的でちょっと尊敬されていたりもするのだ。



黒髪の人たちが多いスペイン。私たちもよく後ろから「セニョリータ、セニョリータ。」と呼び止められた。
振り向くと一瞬、ギョっとした顔をするのだが、それでもめげずに、私に道やバスの路線を聞いたりするおばさんたちは、
ちょっと不可解だった。
見るからに外国人の私に聞かなくてもと思うのだが・・。


とにかく、バルセロナではそんなこともなく、ガウディーのサグラダ・ファミリア教会に感動したり、ミロの作品を見て回ったり充実した時間を過ごした。











           スペインのかわいい悪ガキたち  

この路地の先に・・8

2009年06月01日





                     親切に道案内をしてくれた地元の漁師のおじさん







お待たせしました。大昔の旅のお話の続きです。
スペイン編


ここコンポステーラにいる間、ほんとに雨ばかりだった。
降ったり、止んだりを繰り返す天気のせいで、日本にいるときは、一年で一回見るかどうかの虹を、一日うちに何度も見ることができた。


今日は、ラ・コルーニャという町に行ってきた。
この町の人は、本当に親切で優しかった。豊かな雨とそれに育まれる緑、そして美しい海のせいなのだろうか。




ガラスの街と呼ばれているマリーナ大通りで出会った地元の漁師の太っちょおじさん。
英語は出来ないと言いながらも、一生懸命この街の見どころを話してくれて、とうとうサン・アントン城まで連れて行ってくれた。
アントン城では、見学に来ていた大学の先生らしい人と学生さんが時間を割いて、博物館を案内して色々な事を説明してくれた。
16世紀に要塞として建てられた城だが、ローマ時代のものなども展示されていた。
一番印象に残っているのは、城の地下にあった牢屋だ。
潮が満ちると、囚人は溺れ死ぬ仕組みだとの説明に背中がぞっとした。



二人にお礼を言い、エルクレスの塔へ向かう。坂道を上ると、そこには大西洋が広がっていた。
この塔は、なんと2世紀ローマ時代に建てられた灯台だ。
18世紀に外部の修復がなされてるとはいえ、2世紀の日本って何時代?




荒れた大西洋から吹きつける風は冷たかったけど、地図を広げただけで、「どこへ行きたいの?」と話しかけてくれる人たち
、帰りに間違ったバスに乗った私たちを正しい路線まで無料で乗せって行ってくれたバスの運転手さん、
やさしい日本びいきのホスタルSUSOのおじさんとお兄さん。
そんな人たちとの出会いが私達の心をぽかぽかにしてくれた、なんだか心温まる一日だった。

この街にずっといたい気がするけど、明日はまた次の町へと出発だ。まだまだ、先は長いのだから。


お話の続きはまたいつか・・・。

  
タグ :スペイン

この路地の先に・・その7

2009年05月19日

スペイン食事編



貧乏旅行の私たち、レストランで食事をするのは原則として一日、一回。

あとは、公園や移動中のバスや汽車の中で自分たちで作ったサンドイッチなどで済ませた。
メルカード(市場)に行って、パンや生ハム、果物などを調達するのも楽しかった。
サンドイッチを作るのに使うマヨネーズも、日本の様なチューブではなくガラスの瓶に入っていたし、美容と健康のためと買ったオレンジもキロ単位で(一キロが100円ぐらい!!)、私たちは、いつもリュックを担いで手にはマヨネーズやオレンジの入った袋を、ぶらぶらとぶら下げて旅していた。

庶民的なレストランにはたいてい、メヌー・デル・ディア(本日の定食)がある。
安い料金で、飲み物、サラダかスープ、メインディシュ、デザート、コーヒーなどが付いていて、それぞれ2,3種類の中から選ぶことができたりする。
飲み物も、水でもワインでもおんなじ値段だ。レストランによっては、一瓶どんっと置いていってくれるところもあった。

コンポステーラでたまたま入ったレストラン、TIXOLA。
私達のほかにはお客さんもいず、ちょっと不安だったが、おじさんがとっても親切だった。
私達のため、まず音楽をかけてくれ、わざわざ食材を見せてメニューを一生懸命説明してくれた。一番安い定食にしたにもかかわらず、おじさんは終始にこにこ顔。
海の幸がおいしい街なので、生ガキも頼んでみた。当時、一個100円でとってもおいしかった。
「デザートは00000か、xxxxxのどっちにする?」と聞かれ、わからないまま
聞いた感じ、おいしそうなxxxxxにした。
何が出てくるか、わくわくしながら待っていると、


皿に載せられた一本の「バナナ」がうやうやしく登場したのには爆笑だった。


おじさんと握手をして店を後にした。今も元気でいてほしいな。






モロッコとかでは、お腹こわして、大変な目にあったこともあったけど、地元の食べモノに挑戦するのが旅の醍醐味ですよね。




パエリアはよく食べました。こんな豪華じゃなかったですが。




安くておいしいバレンシアオレンジ。  

この路地の先に・・その6

2009年04月23日



お話の続き・・スペイン編


二昔前の、ちょうど今頃、私は友人と二人、マドリッドから寝台列車に乗り込みスペインの北部サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かっていた。

寝台列車は、ちょっと贅沢をして一等車の切符を買ったので、狭い個室の部屋には洗面所や電話も付いており、ルームサービスなども受けられるそうだ。もちろん、貧乏人の私たちがルームサービスなど利用することはないが。
朝にはちゃんと起こしに来てくれるというので、ストに辟易していた私たちは
「ちょっと見直したよ、レンフェ。」という感じだった。



スペインと言うと、情熱、太陽というイメージがあるが、サンティアゴには、フラメンコも闘牛もない。
公園には椿の花が咲き、ちょっと日本的なところのある落ち着いた町だ。
雨も多く、私たちは一日のうちに何度も虹を見ることがあった。



巡礼の町として有名なこの町を、その昔800キロの道のりを歩いて大勢の信者が命がけで目指した。
カテドラル(大聖堂)には今もたくさんの信者が訪れている。
今日は何か儀式が行われており、パイプオルガンの厳かな音色の中、男性が大型の香炉を振り回すのを見ることができた。



ヤコブ像の真後ろに行くための行列があり、みんな像を後ろから抱き締めマントにキスをしていた。
私の後ろに並んでいた女性が

「両手で抱きしめて、マントにキスをするのよ。そしてその時、ひとつだけ願い事をお祈りするの。」
(梅子自動翻訳機による)
と教えてくれた。


何世紀ものの間、巡礼者たちが手をおいて祈った教会の柱は、五本の指の形に擦り減っていた。
熱い信仰をもったはるか中世の人々に思いをはせながら、私もその上にそっと指を重ねてみた。


続きはまたいつか・・・。



  

この路地の先に・・その5

2009年04月09日

スペイン編の続き


安い宿も見つけ、しばらくはマドリッドを拠点に近郊の町に小旅行。

その日は一泊でラマンチャのあのドンキホーテが向かって行ったような風車を見に行く計画を立てた。
まずは、スペインの国鉄レンフェの一か月乗り放題パスみたいなものを購入。
窓口では、「キャッシュか?カードか?」と聞かれたスペイン語がわからず、戸惑ったがなんとか無事買うことができた。窓口のおじさんと隣に並んでた人が一生懸命、現金とカードを見せて説明してくれるもんだから、隣に並んでいたおばさんが笑ってたっけ。

有名な観光地や名所もたくさん訪ねた旅なのに、覚えているのは、言葉の通じない人たちから受けた親切や笑顔の方が多い。不思議なものだ。


かなり長い時間、駅で列車を待ちそろそろホームへ出ようという時になって、案内板からいきなり私たちが乗るはずだった汽車の表示が消えてしまった。
「何で?何番ホームか分からなくなったじゃん!」
インフォメーションには長蛇の列。これじゃ間に合わない。
こうなれば、その辺にいる人に聞くしかないでしょ!!

近くを通りがかったおばさんに切符を見せながら、当然日本語で
「ここに行きたいんですけど、どこのホームにいけばいいんですか?」
「急に案内が消えちゃたんです!!」

そのおばさんは、切符を見てスペイン語でこう話した。
「あら~、私いまここに行く人をお見送りにきたのよ!!
ほら、あそこを歩いている人たちよ。あの人たちについていけば大丈夫よ!!」

(これはすべて私に内蔵されている梅子自動翻訳機*によって翻訳されたものです。)

***梅子自動翻訳機とは、その場の状況と想像力および勘80%、英語、スペイン語の知識20%をフル回転させて働く高機能の翻訳機です。しかも、スペイン語はほとんどが食べ物の単語で構成されています。***


その人たちに付いていって、着いた所はなぜかバスターミナル。
「???」
切符をバスの運転手さんに見せるとうなずいて「乗りなさい」の合図。
「もう、何?!わけわからん!!」
そのうち、なんとなく「突然汽車はストに入ったらしい」ということがわかってきた。
日本では信じられないが、これがもうしょっちゅうで、ほんとこのストには泣かされた。

一度は寝台列車で、夜中にいきなり起こされてバスに乗り換えさせられたもんね。
みんな、たいして文句も言わないんだから、お国柄なんですかね~。

バスはブドウ畑の中を走り続けていたが、空腹に耐えかねた乗客からついにブーイングが出始めた。乗客たちは、やっとあった一軒のレストランの前に無理やりバスを止めさせると店の中へと消えって行った。わたしたちは、みんなが満足してまたバスに戻って来るまで、バスの中で持っていたパンなどで空腹を満たした。

結局、ガイドブックには汽車で2時間と書いてあったカンポデ・クリプターナに着いたのは、駅を出て6時間後、朝ホテルを出てから10時間が経っていた。長い一日だった。

続きはまたいつか・・。





         スペインの時間はゆっくり過ぎていきます。まだロバも現役です。
  

この路地の先に・・その4

2009年03月27日










       http://iwashiroya.yoka-yoka.jp/

  の方に4月よりお引越ししますのでよろしくお願いします。


  お話の続き


     この路地の先に・・その4

マドリッド、第一日目の朝。
淡い期待も裏切られ、やっぱりバスルームのドアはぴくりともしなかった。
仕方ないので、H美さんがボーイさんを呼んで来てくれた。
事情を理解した彼は、針金みたいなものでこちょこちょっとやってくれて、無事ドアはあいた。



思えば日本を出発してから今まで、なんだかんだトラブル続きだ。行く先、多少の不安もあるが、これ以上のことはそうそうないだろう。

まずは、銀行に行って両替、それから今日からの安い宿を探さなくては。



荷物の整理を始めると、なんか、リュックの一番上のポーチ程の大きさの収納部分がすかすかの様な気がした。


ここに何入れてたっけ?
あっ!!あれがない!!え~なんで?!


私たちは、成田からマドリッドに行く途中モスクアで乗り換えのため、ホテルに一泊しなければいけなかったのだが、荷物はモスクアで私たちの手元に帰ることなく、直接マドリッド行きの飛行機に積み替えられた。
(それを知らなかった私たちは、モスクアのホテルでちょっと困ってしまった。)

これは、後に知り合った日本人バックパッカーの人から聞いた話だが、モスクアの空港での積み替えの時、バックパックなどの鍵のかからないものは、中身を抜かれることがあるそうなのだ。
その彼女は、カメラが無くなっていたと落胆していて気の毒だった。






とある、モスクアの家庭。

テーブルの真ん中には容器に入った赤い、丸い物体が十個ほど置かれている。
テーブルを囲む、小さな男の子と女の子、そしてブロンドの美しい母とがっちりとしたたくましい父。
「ねえ、パパ、これ何?」「食べてもいい?」
「ちょっと待て!!パパが調べてからだ。」
お父さんは、その赤いものを眺めまわし、匂いを嗅いでみる。
おもむろに口の中へ・・。

「グエッ!!なんだ、これは!!」すぐ吐き出したものの、あまりの酸っぱさに口の中は唾液でいっぱいになった。
キッチンでごくごくとコップの水を飲む父をダイニングから見つめる家族の顔には、落胆の色が濃くにじみ出ていた。





あ~あ天罰ですね、私の大切な梅干しを盗んだ。



まあ、梅干し一つでここまで妄想させていただいて元はとったかな。
それと、日本茶のティーバックと、帽子も無くなっていたんですけど・・・。


海外では、貴重品は必ず手荷物にすることをお勧めします。


続きはまたいつか・・・。







  
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