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Posted by おてもやん at

42

2014年05月24日

夕べ、一本のDVDを観ました。

タイトルは、「42」。

この数字でピン!と来た方は、かなりの野球通でいらっしゃいますね。
て、いうか、私が知らなかっただけなのかな。


私同様、分からない方の為に、どんな映画かと申しますと、
黒人で初めてアメリカメジャーリーガーになった人の実話に基づくお話です。

1940年代、アメリカは、まだまだ、激しい人種差別がありました。

ただ肌の色が違うと言うだけで、スタンドの観衆や、相手チームの監督から、野次、罵声を浴び、
あからさまな嫌がらせや脅迫を受け、チームメイトさえも、心ない言葉や態度で、彼の自尊心をぼろぼろにしました。

それでも、彼は、苦しみながらも、後に続くであろう黒人選手の為に、必死の思いで怒りを封じ込めて、
ひたすら、良いプレーをする事で、みんなに認められて行ったのです。

この野球界の出来事は、アメリカ国民が人種差別という考えを改めるきっかけになった様です。

この時、暴力に暴力で返し、汚い言葉を浴びせた相手を同じ様にののしっていたら、
アメリカ、そして、しいては、世界中の人種差別に対する変革はもっともっと遅れていたらしいです。
「世界を変えた男」というサブタイトルに納得でした。

今日、42という背番号は、全チームにおいて、永久欠番となり、彼の偉業をたたえて、
メジャーリーガー全員が、42のユニフォームを着用する日があるそうですよ。

最近、日本のサッカー界や、アメリカバスケット界でも、人種差別的な事があったと、大きなニュースになりましたよね。

日本人の私たちは、日本から出る事がなければ、自分が人種差別を受ける事は全くないので、
言葉や知識として分かっていても、本当のところ、差別を受ける人の気持ちってわかってないかもしれません。

私は、もう何年も前ですが、一度だけ人種差別を体験しました。
イギリスのバスの中での事です。
同じ白人の旅行者と、にこやかに話していたイギリス紳士に、バス停を聞いた私は憎悪と嫌悪感の入り交じった様な目で、睨みつけられました。
海外では、どこでも、親切にして頂いた経験しかなかったので、その瞬間は、なぜ、このジェントルマン(もちろん、皮肉です)が、
私の事を、こんなに冷たい目で見るのか理由が分からなくて、ただ、うつむくしかありませんでした。(もちろん、その後、他の方が親切に教えて下さいましたよ。)

あ〜、あれが、人種差別というものかと気がついたのは後になってからでしたが、その場では、とてもショックで、傷つきました。

こんなささいな事でさえ、人は深く傷つくのですから、日常的に差別を受けている方達の心情は察するに余りあるところです。
今では、たった一度の体験でしたが、経験出来て良かったと思える様になりました。ただ、もう、二度とあんな思いは嫌ですけどね。

ちょっと、今日は、まじめなお話でした。
42、良かったら、観てみて下さい。








  

旅行記最終回

2013年06月13日

この路地の先に.....その40




日本に帰った私には、ひとつ、困った事が。それは、あの、掌に書いてもらったヘンナだ。
日本で、これが掌にあったら、かなり奇妙だ。なんか、悪い病気と思われそう。
とにかく、早く消えてくれる事を願いながら、しばらくは、なるべく、手を見せない様に気をつけた。

がむしゃらに仕事をして、お金が溜まったら、また、旅に出る。
お嫁に行けそうもないし、こんな人生もいいかと思っていたのだが、数年後、縁あって、旅好きの主人と結婚する事に。


スペイン旅行から帰ってきた時は、どんなに父に怒られるかと思っていたが、
怒りと心配を通り越して、怒られる事はなかった。
ただ、もう、どこかで、死んでいると半分諦めていたと聞かされて、胸が痛かった。


結納の日、そんな父が、主人に言っている言葉が耳に入った。
「あの子は、新婚旅行で、わけのわからん所に行こうと言いだすかもしれんけど、絶対言う事聞いたらいかんよ!」



                       。
                       。
                       。


                 それから数ヶ月後

意気揚々と古代遺跡、テオティワカンのピラミッドの階段を登る私の後ろには、
口に合わないメキシコ料理でお腹を壊して、悲壮な表情で必死に付いて来ている夫がいた。




                     ~ 完 ~


やっと、完結いたしました。
ともかく、大昔のお話で、中々進まない旅行記でしたが、楽しみにして頂いていた方もいらっしゃって、本当にありがとうございました。これを書く事で、また、旅行に行った気分になれて、楽しかったです。
また、いつか、どこかの国の楽しい旅のエピソード書けたらいいなと思います。





  

再びモスクワへ

2013年06月12日

この路地の先に.....その39

モスクワの空港では、リスボンから来た、トランジットの客は私たち2人きりだった。
ホテル行きのバスの待合所に行くと、青年が一人、寂しそうにぽつんと椅子に座っていた。
ずっと待たされて、とてもお腹が減っているという彼に、さっきの機内食で取っておいたポケットのチーズをあげたら、とても喜んでくれた。

彼は、20歳のフランス人で、漁師をしていたのだけど、これから、モザンビークに住んでいるご両親のところに行くそうな。
北の方に漁に行って、オーロラって見た事ある?って聞いてみたけど、通じなかった。
オーロラの発音が違ってた?

なんか、とっても、不安そうにしていたので、ホテルでも、食事に行く時は誘ったりして面倒をみてあげた。
この旅では、ず〜っと見ず知らずの人たちに面倒見て貰いっぱなしだったけど、
最後に、他の人のお手伝いが出来るようになったとは、私も成長したもんだ。

このトランジットホテル、行きも泊らせられたけど、凄いところで、食べ物は酷いし、珈琲はカップの下にドロドロな物が溜まっているし、シャワーは壊れているしで、帰りに泊るのが恐怖だったのだが、この2ヶ月間で、すごく改善されていて、
なかなか快適になっていた。これも、ペレストロイカのお陰なのだろうか。
改革前後、どちらも体験出来た事は、とても、貴重な事だったかもしれない。

ゴルバチョフさんありがとう!

ただ、バスからは降りる事は許されないが、モスクワ市内観光も無料で連れて行ってくれると言うので、
しっかり申し込み、楽しみにしていたのだが、割り込んだ人がいて、とうとう、バスに乗れず、
参加できなかったのが、心残りだった。


私の楽しかったこの旅も、ついに終わりの日を迎えた。
結局、スペインのフラメンコも闘牛も見ず、ポルトガルのファドも聞かずじまい。
でも、それにまさる経験ができた本当にいい旅だった。

歴史ある荘厳なカテドラル、ガウディーの独創的な建造物。
モロッコの、美しいパームヤシの森や、マラケシュの猥雑さ。アフリカの人々のエネルギーと、プライド。
そして、やさしい人たち。
出会った全てが一生の宝物。

またいつか、こんな旅が出来るだろうか。













〜〜明日は、最終回〜〜


  
タグ :モスクワ

ポルトガルよ、さようなら。

2013年06月11日

この路地の先に.....その38


エルヴァス市内は、城壁に囲まれていて、中心にレプブリカ広場、その後方にカテドラルを始め、見所が固まっている。
私たちは、カテドラルが閉まっていたため、聖教会へ。


(モザイクの壁がすばらしい)
ここでは、神父さんが、ガイドをしてくれたのだが、なんせ、ポルトガル語だったので、全然分からなかったのだが、申しわけないので、フンフンと頷きながら、聞いていた。

その後、ふらふらと歩いていると、ガイドブックにも載っていない博物館を発見し、入ってみることにした。
ここでも、おじさんが、ガイドしてくれて、一部屋一部屋、鍵を開けて見せてくれた。
そこは、人形のばかりの部屋だったり、アフリカの部屋とうい所では、ニシキヘビの皮とか、ワニの剥製とかが展示されていて、なんか、これが大したものじゃない様な気もするんだけど、意外におもしろかったんだよね~。

入場料も安くて、絵ハガキもくれたし、ここは勧め。


なんて言う博物館か…、ん~名前は分かりません。すいません。


そして、今夜は、なんと、ポウザーダに泊るのだ!
ポウザーダというのは、王侯貴族の住居や修道院を改修したホテルで、今まで、私たちが泊っていた一泊700円とか、1000円のホステルとは、格式が違う高級なホテルだ。とはいっても、国営なので、驚くほど安い。(たしか宿泊代は1〜2万円台だったと思う。)

そんな旅行者に人気のポウザーダをたまたま見つけ、旅の最後ぐらい、贅沢してみようかと、今夜、空き部屋なんかないですよねっと恐る恐る尋ねてみたら、なんと泊れると言うので、思い切って宿泊する事にしたのだ。
私たちの部屋は、白を基調に、花柄のベッドカバーとカーテンがかわいい落ち着ける部屋だった。




荷物を置いて外に出た時、ポウザードを見学だけに来た日本人の団体さんに出くわし、
「こんな所に泊るなんて、豪遊だね~。」とか、色々嫌味を言われたけど、今まで、私たちが泊ってきた所なんかに、この人たちは、絶対泊れないだろうな~と思った。

夜は、コース料理を頂き、今まで無事に旅をしてこられた事を祝って、ポルトガルワインで乾杯。
旅の最後に、最初で最後の贅沢な夜を過ごした。

次の朝、バスで、リスボンへ帰り、その日は、発見のモニュメントとベレンの塔へ。

「お~、ジパングが見えたぞ~」って感じ?






その夜は、念願のイワシの炭火焼に、この為だけにH美さんがわざわざ日本から持参していた醤油をかけて食べる事が出来て、ポルトガル最後の食事も大満足だった。

明日は、とうとう、ポルトガルともお別れ。
モスクワ行きの飛行機に乗る。
  

ここって、ホステルだったのか?

2013年06月10日

この路地の先に....その37



ポルトガルに入って、まだ大したものも見てない私たち。
ガイドブックに載っていたお店は、もうなくなっていたし、楽しみにしていたイワシも食べてないし、
ファド(日本の演歌みたいなポルトガル人の心の故郷的な唄)もまだ聞いてない。

今日は、はりきって、朝5時起きで、エルトレモスという町に行く予定だったけど、
夜中にお腹がとっても痛くなって、また、トイレに籠る事に。
まだ、モロッコを引きずっているらしい。
ん~、あの国の刺激は私には、強すぎた感じ。

それで、バスを午後に変更したのだけど、インフォメーションのお姉さんが言ったバスターミナルからは、
エルトレモス行きのバスはないじゃん。もう~!

仕方なく、急に予定変更して、エルヴァスの街へやってきた。
リスボンからバスで4時間。スペインとの国境までは、わずか12キロというエルヴァスは、ナポレオンによるスペイン軍侵入戦争の舞台になった所と言う事だが、もちろん今は、のどかな静かな街だ。

小さな街だと思っていたけど、結構観光客も多いみたいで、どこのホステル(民宿)も空いてなくて、
途方にくれていたら、一人のおじさんが、自分の家がやっているホステルに案内してくれた。

まだ新しくて、真っ白できれいな部屋に清潔なベッド。
でも、最初に部屋に案内してもらってお金を払ってから、チェックアウトまで、そのお家の人にも、他のお客さんにも、誰にも会わなかった。
普通、シャワーを使う時は別料金(100円ぐらい)なんだけど、声を掛けても誰もいないので、勝手にバスルーム貸して頂いて、
結局そのまま部屋も勝手に出たけど、あそこ、ホステルだったのかな?

もしかして、単にあのおじさんの家だった?かわいそうに思って部屋貸してくれたのかな~?
まったくもって、何かと海外では、謎が多すぎる….。(笑)
言葉が通じない故の、不可解な出来事。それもまた、旅の醍醐味。




エルヴァスの15〜17世紀の水道橋

久々に旅行記の続きが書けました。以前のものは、カテゴリー「世界あちこち迷子日記」にあります。
  

リスボンの高校生

2012年01月12日

この路地の先に.....その36


夕べも、早々にベッドに入ったというのに、寝ても寝ても、眠たくて仕方が無い。
なんだか、意識が遠い所にあるみたいな気がする。
モロッコで、私の全パワーを使い果たしてしまったようだ。

それでも、昼頃になると、やっとモロッコの魔力も解け始め、
ぼ〜っとしていた頭も、少しすっきりして来た。

昨日壊したお腹の調子もいいみたいだし、今日はのんびり、リスボン市内の観光でもしてみることにした。

まず向かったのは、サンジョルジュ城。約1500年前に建てられたお城には、真っ白い孔雀が放し飼いにされていた。
高台にあるこのお城からは、テージョ川や、リスボン市内が見渡せる。
リスボンの写真
このリスボンの写真はトリップアドバイザーから無料提供されています



リスボンの写真
リスボン

ここで、高校生ぐらいの子供たちが、美術の授業なのだろうか、スケッチをしていた。
その中の一人の女の子が私たちを指差して「チーノ、チーノ!(や〜い、中国人、中国人!)」とひやかした。

その言葉は、スペインでも、時折小さい子供から投げかけられることはあったが、その時は
優しく笑顔で「日本人よ」と言い返す事も出来たのだが、さすがに高校生ぐらいから言われると、
アジア人を馬鹿にした態度にカチンと来た。

「バッカじゃないの〜。あんたね〜、その歳で、まだそんな事言ってると、あなた自身の品格や知能を疑われるよ」
と、思い切り言って.......

やりたかったけど、気が小さいので、小さな声で、しかも日本語で言った。

リスボンの街は、本当に坂ばっかりで、ぶらぶら歩いているだけでも息がきれるし、
ぼ〜っとしていると、電車に轢かれそうになる。リスボンの写真



隣りの国なのに、スペインとは、随分違うような気がした。
人も街も、なんかのんびりしていて、いい意味での、「田舎」という印象を受けた。

大航海時代、栄華を極めたポルトガルのきらびやかさは、今は、もうない。

リスボンの写真
リスボン  
タグ :リスボン

ポルトガル一日目の災難

2011年12月12日




忘れていた訳ではないのですが.....。

どこまで、書いたんでしたっけ。
そうそう、モロッコをなんとか脱出して、ポルトガルに入ったとたん、
腹を壊したとこでした。
この旅の話、もうすぐ完結です。
これまでのお話は、カテゴリー、「世界あちこち迷子日記」にあります。
よかったら、読んでください。




この路地の先に....その35



ほんのちょっと、アフリカ大陸に自分の足跡を付けて帰るつもりだったのが、
ひょんな事から、モロッコへ行く事になり、それも1日、2日ぐらいのつもりが
一週間も費やしてしまった。

本当は、ゆっくり列車でアンダルシアを旅しながら、ポルトガルに入るつもりだったけど、
そんなわけで、時間がなくなり、大急ぎでマドリッドから、リスボンに飛ぶはめになってしまったのは
ちょっと残念だった。

まあ、それでも、無事にリスボン入りし、適当な宿を探す事ができた。
荷物を置いたら、街をぶらっとしてみようと、宿を出た。

とにかくリスボンは坂の多い街だ。
リスボンの写真
このリスボンの写真はトリップアドバイザーから無料提供されています

しばらく歩いていると、急にお腹が痛くなった。

なんとか、トイレを発見し駆け込んだ。

なんか悪いもん食べたっけ、などど考えながら、苦しんでいると
誰かが、ドアをどんどん叩く。

使用中という事で、叩き返したいのだが、ドアは手が届かない所にあった。

すると、おばさんが何か怒鳴っている。

「入ってます」ってポルトガル語なんて知るわけもなく、仕方ないので
日本語で「入ってます!!」って、言ったけど、おばさんの声は、ますます大きくなるばかりだ。
「入ってますってば。お腹が痛いんです!」って言っても、どんどんドアを叩くおばさん。

まだ、出たくなかったけど、しかなくドアを開けると、おばさんに睨まれた。
そんな事言ったって、お腹の具合が悪かったんだもん。
そんなのは、世界共通でしょうよ。でも、おばさんも、我慢の限界だったのかな。


モロッコでは、日本の学校で習った、
「食事の前には、石けんで手を洗いましょう」なんて事が、ばからしく思えるほど、
衛生的って言葉からは、かけ離れていた。

しかし、人間というもは、環境に適応するように出来ているのだ。

どちらかというと、潔癖性に近い友達。
常に、便座シートや、除菌ティッシュを持ち歩いていた彼女だが、
モロッコでの旅後半では、すぐ近くに、家畜のフンがある所に座っていても平気そうだった。

生水はさすがに飲まなかったが、屋台のカタツムリ料理や、怪しげな物も食べたくなくても、
勧められれば断れず、ちょっと不安になりながらも食べたのだが、モロッコでお腹を壊す事は一度もなかった。

ところが、ヨーロッパに戻ったとたんこんな事になったのは、一気に気が緩んだせいだろうか。

その日は、もうおとなしく宿に帰ったが、お腹の調子は治らず、
早々にベッドへ入った。
私のポルトガル1日目は、
トイレと仲良くなっただけで終わったのであった。  

旅は人を成長させる。

2011年12月07日

三男も、修学旅行より無事帰って参りました。

行く前は、なんか、ぶつくさ言っていましたが、とっても楽しかった様です。

京都の自由行動では、バスに乗り遅れたり、乗り間違ったりとアクシデントもあった様ですが
それも、またいい思い出ですね。

彼も、またひとつ、大きくなった事でしょう。

旅と言えば、ず~っと、私の心の隅に引っかかっているものがありまして。

カテゴリーの「世界あちこち迷子日記」に書いていた旅行記。

怒涛のモロッコをなんとか脱出して、ポルトガルに入ってから、ぴったと筆が止まり
そのままになっております。

けっこう、楽しみにして頂いていた方も多くて、なんとか、このヨーロッパ、アフリカ編は、最後まで書かないとと思っておるところです。
近いうち、書きます。





  
タグ :修学旅行

やっとこさ、ポルトガルへ

2011年03月03日

この路地の先に・・・その34



サハラ砂漠を後にし、運転手モハメッドの家におじゃまして、タジンをごちそうになり、
シャワーも使わさせてもらい、ほっと一息。

洗濯物が溜まっていたけど、ここには、コインランドリーなんてあるわけもなく、
なんと川で洗濯。
どんぶらこっこと、何にも流れてはこなかったけど、これもまた楽しい体験だった。


次の朝、車のエンジンが、かからない。
なんとか、他の人の手助けで、出発出来たものの、大丈夫か?この車。


(押せ~、押せ~)

モロッコでは、車同士がすれ違う時、指でサインを出す。
「問題ない、大丈夫」という意味だ。もし、トラブルがあれば、お互い助け合うらしい。



しばらく、走っていると、車のホイールが壊れて、走れなくなってしまった。



(このカスバの下でした)
通りがかりの人に、修理の人を呼んで来てもらって、修理ができるまで、道端で延々3時間待った。
近所の人が、ミントティーを差し入れしてくれた。





なんか、もう疲れた~。スペインに帰りた~い!!

そう、わめいていた私たちを、2人のモハメッドが、港のあるタンジェまで送ってくれる事になった。タンジェまでの途中も、果てなく広がるひまわり畑を、ベルベルミュージックを聞きながらがんがん飛ばして行った。それでも、途中一泊しないと、着かないほど、遠かった。

多分、かなりぼったくられた気もするけど、とにかく早くヨーロッパに帰りたかったのだ。

モロッコでは、もう二度と見ることのできない風景にも沢山出会えたし、親切な人たちにも、い~っぱい、い~っぱいお世話になったし、ぼったくられたりもした。
大自然の美しさも、厳しさも見て、人間のしたたかさも、優しさも見た。
貴重な体験をいっぱいさせてもらった。
そして、本当にほんとうに疲れた。

スペイン行きのフェリーの中では、三時間、口を開けて、ほとんどいねむりしていた。

アルヘシラスの港から、一旦夜行列車でマドリッドに行き、空港では待ち時間ゼロで、ポルトガル、リスボンへ飛んだ。

本当は、ゆっくり、列車で、スペインから、ポルトガルへ入りかったのだが、モロッコですっかり日にちを食ってしまったので、仕方がない。

あ~、やっぱり、ヨーロッパって落ち着く~。
が、ひどい下痢。やられた~!!助けて~!!




  

サハラ砂漠での一夜

2011年01月13日

この路地の先に・・その33




こんな、砂漠の中にホテルが存在しているということさえびっくりだったけど、
ちゃんと、シャワーはお湯も出て、砂まみれの私には嬉しかった。

そして、夕食の後、いきなり始まった旅人達の音楽会は鳥肌ものだった。

聞きなれないアラブの旋律。
けれど、そのリズム感は、やはり、アフリカの人たちなんだな~ということを強く感じさせた。




どこか不思議な世界に迷い込んだ様な感覚に見舞われながら、屋上へ登ってみると、
そこでは、今まで見たこともない、そして、たぶん二度と見ることができない無数の星が煌めく夜空が私を迎えてくれた。

あたりは、全く人工的な光のない漆黒の闇。ただ、ただ月と星たちだけが美しく輝いていた。
聞こえるのは、風の音だけだ。

このまま、ホテルの部屋なんかで寝るなんてもったいと思った私は、毛布にくるまり
一晩中、屋上で、星を見ながら過ごした。この夜の星空は一生忘れないと思いながら・・。


夜が明け、星の輝きも薄れる頃、私は立ちあがり屋上からあたりを見回すと、
やはりそこは、砂一面の世界が広がるサハラだった。

子供の頃、宮崎に子供の国という遊園地があって、何度か連れて行ってもらった事があった。
そこで、子供たちに一番人気のアトラクションは、本物のラクダに乗って園内を一周するというものだった。私は、それに乗りたくてたまらなかったが、きっと料金が高かったのだろう。子供ながらに、遠慮して、とうとう乗りたいとは一度も言いだせなかった。

しかし、こんな所で、その夢が実現するとわね。
きっと、いままでいい子にしていた神様からのご褒美にちがいない。






  

サハラ砂漠

2010年12月09日

この先の路地に・・・その32


トードラ谷から帰って、今度は、サハラ砂漠へ連れて行って貰える事になった。

彼が連れてきた運転手の名前は、モハメッド。そういえば、名前を書いてなかったが、私たちを泊めてくれたのも、モハメッド。
お互い、モハメッドと呼び合っていた。ややこしい~。

モロッコでは、一家に一人は、モハメッドがいるらしい。
というわけで、道で、「モハメ~ッド!!」と呼べば、半分ぐらいの人が、振り向くのだ。
ん~やっぱり、ややこしい。

運転手モハメッドは、運転技術はいまいちだけど、見るからに人がよさそうな人物で、
信仰深く、時間になると、車を止めて、ござを持って走り、
メッカの方向に向かってお祈りを欠かさなかった。

しかし、いかんせん、車がぼろ。
エンストはするし、大丈夫なのか?ちょっぴり、不安。


周りは、草がまばらに生えている準砂漠へと入ってきた。
あれは、野生のラクダの親子?





砂漠に入り、しばらく行くと、ついにタイヤが砂に埋もれ、動かなくなってしまった。
ひえ~、私はこんな所で、サハラの砂と化すのか・・・。


風が強くて、砂嵐も起こり、巻いてくれたターバンが、とっても役にたった。
砂漠の強い日差しや、砂から守ってくれるターバンは、砂漠の民には必需品だと、身をもって体験できた。


みんなで、必死で車を押す。

「ほら、あそこに、蜃気楼が見えるだろう。」なんて言われたけど、見えるような、見えないような。

なんとか、砂から脱出し、砂漠の中の小さなホテルへと到着したときは、あたりはもう暗くなっていた。

  

世界ウルルンみたい・・。

2010年11月27日

この路地のさきに・・その31


彼の家は、あの丘から見えた沢山の土の家の中の一軒だった。

その家には、彼のお兄さんと奥さんと子供たち、そして2人の妹さんが住んでいた。
彼らは、私たちを快く歓迎してくれた。

マラケシュでお世話になったカリッドの家とは違い、美しいモロッコタイルもなければ、中庭も見当たらなかった。床も土でできた床にござを敷いただけだ。
でも、テレビもビデオデッキもあり、貧しい暮らしというわけではなく、この辺はこんな様式の家なのだろう。

モロッコには、アラビア人とベルベル人がいて、彼らはベルベル人だということだった。
その辺に違いがあるのかもしれない。


床に座って、丸いちゃぶ台を囲み、一つの皿からみんなで分け合う食事は、手で食べる事を除けば、一昔前の日本の家族という感じだ。





妹さんたちは、カーペットを作っていて、私たちにもやらせてくれた。
一枚のカーペットが出来上がるまでには随分かかるのだろう。



針の付いた板で、羊毛を均等にならす



それをよって糸に


彼女が織っているのはブランケット


私も挑戦

その日は、結局、彼の家に泊めてもらった。

次の日は、ミュラーという、ロバみたいな動物に乗って、美しいトードラ谷へ出かけた。



お尻がむっちゃ痛かった!!

(トードラの写真がいいものがなかったのでご覧頂けなくて残念。すばらしい所でした。)  

オアシスの町

2010年10月19日

この路地の先に・・その30


ワルザザードは、カスバ街道の中心で、サハラ砂漠への入り口の街でもある。

しかし、ガイドブックを持ってない私たちは、その時、そんな情報も知るすべもなかった。それに、人間勝手なもので、モロッコ人の親切を通り越したしつこさにもちょっと辟易してきて、そろそろヨーロッパに帰りたくなっていた。

アトラスもとりあえず越えてみたし、ここから、エルラシディア行きのバスに乗り、フェズ、そしてタンジェというルートで、スペインに帰る事にした。


エルラシディアに向かう途中でバスに乗り込んできた、なんかちょっと変わった感じのお兄さん。日本人か、と聞くのでそうだと答えるとおもむろに手紙を取り出し見せてくれた。

その日本語の手紙の差出人は、デーモン小暮閣下だった。
内容は、プライベートでモロッコを旅した時、彼に出会いとても親切にしてもらったということだった。
はたして、本物?
疑わしげに見つめる私たちに、彼は、デーモン閣下から送られてきたという、
帽子やなんやかんやを見せてくるのだった。
そして、どうしても今日はうちに寄ってくれと言うのだ。

いや、今日中にタンジェまで帰りたいと何度か断った私たちにであったが、
彼の明日には絶対着けるからという言葉にとうとう根負けしまいバスを降りてしまった。


そして、丘に登り見たものは、息を飲む様な本当に美しいパームヤシのガーデン(森)


その向こうには、土づくりの家が立ち並んでいる。
ガーデンの中には、かわいい小川が流れ、それを飛び越えてみたりしながら、小鳥のさえずりを聞きつつ散歩すれば、すれ違う人たちは、優しい笑顔で「ボンジュ~ル」「サバ?」と挨拶してくれる。





まさしく、ここはオアシスの町。
こんな、美しいところがモロッコにあったんだ!
マラケシュの雑踏と執拗な客引き、そして、はげ山しか知らなかった私たちは、この静かなティネリールの美しさにすっかり魅了されてしまった。



(閣下から頂いた認定証。これも何かの縁かな)
  

アトラス山脈越え

2010年10月17日

この路地の先に・・その29


夕べ、遊びに来ていた大学生の男の子から、朝ごはんの招待を受けた。

かわいい妹さんの掌には、オレンジ色の美しい模様が描かれていた。
これは、ヘンナというものだそうだ。





実は、数日あと、私たちも、このヘンナを経験する事になるのだが、
これって、当分の間は消えなくて、日本に帰ってから、ひたすら手を隠すはめになってしまった。

お昼ごはんは、ラシッドの友人が住む新市街地にあるマンションで御馳走になった。

この辺りは、城壁の中とは違い、現代的な建物が立ち並んでいた。
一緒に食事をした友人たちは、中学校の数学の先生、エレクトロニックの先生、
医大の学生と、ここはちょっと、インテリな人たち住んでいる場所らしい。
でも、みんな、気さくでいい人ばかりだ。




そのあと、私たちは、おんぼろバスに乗り、アトラス山脈を越えた先にある町、
ワルザザードへ向かった。

窓の外は、ほとんど樹木も生えてないごつごつとした岩肌の荒涼とした風景が続く。

日本に帰って、杉の木が整然と立ち並ぶ美しい山々を見た時、
今まで当たり前すぎて、なんとも思っていなかった緑で覆われた山に初めて感動した。
日本って、こんなに美しい国だったんだと、再認識できたことだけでも、
この旅の意義があったように思えた。
(その後、花粉症にかかって、毎年苦しむので、今は杉の山は憎たらしいだけだが)

そんな道の傍らで、石を売っている人がいた。
化石とか、水晶などらしいが、ここで、重たい石のお土産を買うわけにはいかない。



ほんのちょっと、覗いて帰るはずだったモロッコだが、
マラケシュの喧騒や、人々の人懐っこさと優しさに出会い、
その不思議な魅力に引き込まれるように、
どんどん奥地へと入り込んでしまう事になっていった私たちであった。

しかし、アトラスの向こうには、まだまだ、私たちの知らないモロッコが待ちかまえていた。

  

この路地の先に・・その28

2010年09月03日

何?これって、モロッコ流のジョーク?
ここは、笑うべきところなのか?

いや~なんと返事をしたらいいのか、とっさに出た言葉は
 
    「日本で、父が待ってるから、帰らないとね~。」

「じゃあ、僕は、あなたのお父さんの為に、マラケシュに家を建てます。」
   
(ひゃ~)

一瞬、モロッコの民族衣装ジュラバを来て、マラケシュの夕日を背にカスバに佇む父を想像してしまった。

もちろん、丁寧にお断りさせていただきました。

実は、これは、私がモテたわけでもなんでもなく、とにかく、モロッコの男性はすぐ
「結婚してくれませんか?」って言ってくる、というのが事の真相で、
モロッコにいた間、何度かプロポーズされた。

断っても、特に落ち込むわけでもなく、あっさり引き下がる紳士的な態度も、なんだか、おかしかったけど。


とにかく本気なのか、冗談なのか、彼らの真意は最後までわかずじまいだった。


今は随分変わったとは思うが、当時モロッコではまだ、親が決めた結婚が多かったのではないだろうか。町にも、あまり女性の姿はなかったし。
だから、数打ちゃ当たるとでも考えていたのかな?
でも、だからと言って、そんな唐突なプロポーズを受ける人いるのかは疑問だけど。

日本では今、婚活ブームらしいが、草食系だとかなんとか言われている今時の日本男児も、彼らの積極性をぜひとも見習ってほしい気がする。

その日は、ラシッドの家でお母さんが作ってくれた、タジンの夕飯をごちそうになった。
他の友人も集まり、お互いの国の歌を歌いあったり、マイケル・ジャクソンのダンスやブレークダンスを見せてくれたりして、大賑わいの夜であった。


草食系男子に辟易している肉食系女子の方々、モテモテ体験をしてみたい貴方、今度のバカンスは、ぜひモロッコへどうぞ!





カスバ  

この路地の先に・・その27

2010年07月28日

マラケシュのメディナの中は、このタイトルみたいに、迷路のような路地だらけ。
行けども行けども、一度迷い込むと、どこが出口やら。

途中、昨日車で送ってくれたジーンに偶然遭わなければ、本当に迷子になってた。

町を散策していると、2人の若者が話しかけてきた。


「君たち日本人?僕たちが、町を案内してあげようか?」

     「あなたたち、ガイドなの?」

「いや、ちがう。」


なら、信用できるかも。

というのは、マラケシュにうじゃうじゃいる自称ガイドという奴ほど、胡散臭いものはなく、
あとで高額な料金を請求してきたり、変な所に連れて行かれたりするから気をつけろという話を、
スペインで知り合った友達から聞いていたからだ。
その時は、モロッコに行くつもりもなかったので、聞き流してはいたのだが。

モロッコでは、本当に色んな人が話しかけてくる。
聖書の中に「旅人をもてなしなさい。」という教えがあるように、
きっとイスラムにも同じような教えがあるのだろう。
心からの親切心で、声をかけてくれる人も多いが、お金目当ての人たちもいるのは事実である。
全ての人を拒否していたら、それはただの観光名所巡りの旅になってしまうし、
全てを受け入れていたら危険な目にも会う。それを見極めるのは、自分の勘に頼るしかないのだ。

この若者たち、警官のラシッド、ホテルマンのカリムは信頼できるように思えた。
昼間は暑くて観光できないからと、夕方に会う約束をして別れた。

スーク(市場)に行くと、みんな日本語で話しかけてくる。
商魂たくましい人たちにたじたじである。

私が、この世で、一番苦手なものの一つが、値切り交渉。
観光客とみれば、3倍、4倍の値段を吹っかけてくるアジアやアフリカの買い物は小心物の私には、とても苦痛なのだ。
この時ばかりは、「あ~、大阪のおばちゃんの心臓がほしい。」と思わずにはいられない。
「そんなに高いなら、いらへんわ。」とか言って帰るふりとかしてみたい。

でも、せっかく来たんで、皮のベルトを一本と民芸品の化粧品入れを買った。


夕方、約束していた彼らと再会し、町をあちこち案内してもらった。




                     (エル・バティ宮殿跡)

ラシッドは警官ということで博物館の入場料とかも無料にしてもらえた。
(明らかに職権乱用)




                      (バビア宮殿)





博物館を出たところで、ラシッドが言った。


「あの~、僕と結婚してもらえませんか?」

     「はあ~?」

  

この路地の先に・・その26

2010年07月09日

今日は、ラマダン明けの特別な日ということで、サウジアラビアで仕事をしているお父さんも、
もうすぐ帰ってくるとの事。
久しぶりに家族が集まっての団欒に、お邪魔するのも気が引けるので、
そろそろホテルに移ることにした。


突然やってきた、見知らぬ東洋人をみんなで暖かく迎えてくれた、やさしい家族。
でも、おいしい料理を作ってくれた、お母さんにとうとう会うことはなかった。
イスラム教の女性は他人には顔は見せないというが、モロッコはそう戒律が厳しい所ではないらしく、
若い人たちは、ジーンズにTシャツという私達と変わらないスタイルだったけど。

お母さん世代は、そういう戒律を守っているという事なのだろうか。
直接会って、お礼を言えなかったのがとても残念だった。

イスラムの人たちは、テロなどでとても怖いイメージがあるが、私たちがモロッコで出会った人たちはみんなやさしい人たちばかりだった。
カリッドの家族が私達をもてなしてくれたのは、彼らが裕福だったからというのではなく、
これからのモロッコの旅の中で、けっして裕福とは思えない人たちも、私達の事を一生懸命もてなそうとしてくれた。

明日も、マラケシュを出る前に家に寄れと言ってくれたカリッド達に別れを告げ、
教えてもらった安くて安全なホテルにタクシーで行くことにした。
子供たちが寄って来て、タクシーを捕まえてくれたのだが、途中、いきなり違うお客さんも乗り込んで来たのにはびっくり。乗合なんだ~!

着いたホテルは、まさしくジャマ・エル・フナ広場のまん前だった。
広場は、昔公開場処刑だった所で、今は、なんか不思議な人がいっぱいいる楽しいところだ。
アクロバットや、蛇使いなど、色々な見世物をやっていた。





水売りのおじさんは赤い衣装を身にまとい、写真を撮ったら1ディラハム要求されるらしい。
(先日BSTBSテレビでモロッコをやっていたが、10倍の10ディラハムに値上がりしていた!)
どんなに、こっそり撮ってもおじさんは気がつくとか。
http://pics.livedoor.com/u/monbab/46514
おじさんは、こんな感じ↑

ホテルの屋上に上がると、広場や街が見渡せた。



(マラケシュの夕暮、クトゥビアの影が遠くに見えた)

7時半にコーランが街に流れ始めると、それぞれの家の屋上で、祈りを捧げる姿が見えた。
昨夜汽車の中で、ほとんど一睡もできなかったので今日は、早く休むことに。
明日は、マラケシュ探検だあ!




(ロケーション最高のホテル)




  

この路地の先に・・その25

2010年06月26日

城壁に囲まれた、メディナの中にあるカリッドの家。
テレビで見たことはあったが、実物は初めて見るアラブ式の家だ。

では、お邪魔いたします。





真中には、吹き抜けのモロッコタイルが敷き詰められた中庭があり
その四方に一つずつ、部屋がある。
2階も同じように四方に部屋があり、3階はテラスになっていた。


清潔でキチンと整理された素敵なお家だ。
小さな子どもが、掃除をしていたので、
「妹?」と聞くと、
「違う」とのこと。

使用人ってことなのかな~?小学校低学年ぐらいだったけど。
お国によってそれぞれの事情があるので、深くは聞かなかった。



英語の先生というお姉さんのラジャットや、リセ(多分、フランス系の学校)に通っている妹のレイラ、フランスで働いているお兄さんなど、兄弟は7人ぐらいいるらしい。小さな子どもたちは姪や甥みたいだ。
みんなキチンと教育を受けている事からしても、かなり裕福な家庭という印象を受けた。
トイレは例のアラブ式トイレだったけど、ぴっかぴっかにきれいだった。
(良かった~!!でも、やっぱりトイレットペーパーはなかった)


暖かいお湯のでるシャワーを使わせてもらったあと、お昼御飯を御馳走になった。

黒っぽいパンと、香辛料の利いたスープで煮込んである肉の上にフライドポテトが乗ったもの、トマトと玉ねぎのサラダ、ズッキーニ?の煮込み、そしてオレンジジュースというメニューだった。

パンと好きなおかずを、右手の親指、人差し指、中指で一緒につまんで口に入れるのだが、
これまた、初めての体験で、なかなか慣れるまでは難しかった。
でも、とってもおいしかった!
特に辛いとか、食べにくいとかいう事もなく、日本人にも受け入れられやすい味だと思った。

御馳走になったお礼に、ちょっとお手伝い。
おばあちゃんと一緒にアーモンドの皮むきをやった。これをつぶしてお菓子を作るのだそうだ。
友達がトイレに立ったとき、おばあちゃんがラジャットを通して
「あの子は、大人?子供?」と私に尋ねた。

小柄で、かわいらしい彼女。
私たちからしたら、アフリカや、アラブの人たちの年齢がわかりづらいのと同様に、
彼女たちからしたら、東洋人って年齢不詳に見えるんでしょうね(笑)。




妹のレイラ 2階に彼女の部屋があるのかな。



カリッドとおいっこめいっこ  

この路地の先に・・その24

2010年06月14日

堅い座席で、ほとんど一睡も出来ないまま、マラケシュへ到着した。

CALIDが、友人に迎えに来てくれるよう電話をしていた。
「日本人も一緒だって言ったら、あいつ、日本人!?て、びっくりしてたよ。」だって。

そうそう、迎えが来るまでに大事なこと聞いとかなきゃ。

異国を旅するにあたって、とっても重要な事。
   ① その国の言葉での挨拶
   ② 笑顔

で、CALIDに聞いてみた。

「アラビア語でありがとうってなんて言うの?」
      
     「シュクラン」

(シュクランね、これはショコラみたいで覚えやすいな。)
    

「じゃあ、こんにちはは?」
      「アッサラムーアライクム」
「へっ?」
      「アッサラムーアライクム!」

「アッサ、アッサ・・・。無理!」

モロッコは、フランス語も公用語なので、「ボンジュール」でもまあいいか。

迎えに来てくれたジーンも、車の中で、アラビア語を色々教えてくれたけど、
その初めて聞く言葉は、アラジンの魔法のランプの呪文のようで、
まるで覚えられなかった。

あとは、②の笑顔で乗り切るしかないね。

そして、着いたCALIDの家。
初めて見る、アラビア式の家にドキドキだ!
家族は、息子が連れて来た変な日本人を受け入れてくれるのかな?
  

この路地の先に・・その23

2010年06月08日

二等車には、私たち以外に旅行者は見当たらないようだった。
おのずと、みんなの関心は、変な東洋人に集まる。

汽車の中で、鶏が鳴いているのには驚いたが、サンドイッチやピーナッツなど、
食料も恵んでもらったりして、楽しい文化交流ができた。

入れれば当然出すものもあるわけで、汽車の中のトイレのドアを開けのだが、
そこには、○○○の山もりという、今まで見たことのない光景が!
とてもとても、乙女が使用できるシロモノではなく、あわててドアを閉めた。

ん~、どうしたものか。

多分、長時間停車した駅で済ませたのだと思うが、(線路脇を利用した覚えはないので)
旅行日記にも書いてないし、どういう風に対処したのかは自分でも覚えていない。
人間嫌な思い出は忘れるようにできているらしい。

実は、アラブ式トイレの正確な使い方を未だに私は理解していない。
和式トイレの様に真中に穴が開いていて、両側に足を置く台がある。
壁には、水道の蛇口があって、たいてい短いホースが取り付けてあり、その下には
空き缶が置いてある。
水を流すためのレバーや鎖はなく、トイレットペーパーも見当たらない。
なんとなく想像はつくのだが・・・・。
その想像の正式使用方法はどうしても無理だったので、持参したトイレットペーパーを使わして頂いた。
それと、トイレはなるべく街にあるホテルの洋式トイレを借りるようにした。

(というわけで、モロッコへ旅行される方は、トイレットペーパーは持参してくださいね。)


旅行中、お世話になった民家で、
「トイレを貸して下さい。」と頼んだら
「今、壊れているから屋上でして。」と言われた。

えっ!お、お、屋上でって・・・。
この炎天下、小はすぐに乾いてしまうだろうけど、
大だったらどうすんの?

今日は、下のお話で失礼いたしました。

お詫びのの印として、うちの庭で、今満開の薔薇の映像をおまけとしてお付けいたしますので、
素敵な薔薇の香りをご想像くださいませ。